「不謹慎」というレッテルと「不謹慎狩り」というレッテルと ― 2016/04/29
別に「不謹慎狩り」を擁護するつもりはありません。
しかし、よくある「嫉妬している」とか「寂しい人の憂さ晴らし」とか、レッテル貼りで非難するのはおかしいんじゃないかと思っています。
まず、誰かの言動に「不謹慎」なんて言う人は悪意を持っているとされがちですが、みんながみんなそうなんでしょうか?
「不謹慎」の沸点がやたらと低い人はいます。当事者でもないくせに、とよくありますが当事者ではないからこそ歯止めの利かないような人が。
そういう人は自分に悪意があるとは思っていません。善意、というより正義で「不謹慎」を非難していると思われます。
「不謹慎」の定義は人それぞれです。
バラエティ番組くらい構わないと思っている人にとっては、自粛して当然という人達が「不謹慎狩り」ということになるのかもしれません。
大多数の人の価値観に合っていない・合わせていない、それ自体が悪!
ということなんでしょうか?
あとは「不謹慎狩り」に限らず、「バッシング」とか「叩いている」と非難されるようなパターンもありますが、これも都合よく言葉が使われてるような気がします。
・問題があるので指摘した
・改善点を助言した
・おかしな所を突っ込んだ
気に入らない・耳が痛い意見は全部まとめてバッシングにされてないでしょうか?
的外れだったり、配慮が足りなかったりする意見もあるのでしょうが、その辺も含めて様々な意見が来ることは覚悟しないと。
「こっちは良いこと言ってるんだから、余計な口を挟むな!」
「正論なんかいらない、ただて頷いて欲しかっただけ…」
なんてのは、ネットの社会では通らないのでは?
そもそも芸能人のブログやツイッター、突っ込み所が多いのが見受けられます(全部、ちゃんと読んでるわけじゃありませんが)。
生放送での失言じゃあるまいし、書いてから送信する前に一息つけるんだからそこで推敲しないと。それこそ悪意を持ってその文を読んだら、どう悪く受けとることができるかくらいに。
「読んだ人がどう感じるか、ちゃんと想像して書きましょう」ってのは、別にバッシングするような人だけのことではないでしょう。
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